実家で私がもっとも心安らげる場所は、玄関先です。玄関先は実家に含まれるものとします。
それも真夜中の。星がいっとうよく見える時間であればなお良いでしょう。
そこは幸いにも人の通る道とは面していないので、私の姿もおいそれとは見つかりません。
もしも見つけてしまった人が居たとしたら、不幸としか言えません。それはお互いのことです。
今の家に転がり込んで、寮と家を行き来して。
一人暮らしを始める前も、始めた後も、今でも、
真夜中の玄関先で心安らげることは、変わらないようでした。
真昼間の乾いた浴槽、昼下がりの廊下、真夜中の玄関先。
それらが実家で私が居ても許してもらえる心持ちになれる場所です。
許してくれるといっても、自分以外が居られてはいけませんし、
意味のある言葉が聞こえてもいけません。
静かで、口を開く必要のない、空気と空間がいちばんに支配権を持っている場所。
それが数少ない心安らげる場所です。そこに秩序はあっても、社会はないのでしょう。
きっと身近な場所で言えば、図書館であるとか、大人しかいない水族館なんかが
当てはまりそうなものです。何も見えないほど真っ暗なのはこわいので、
青か橙の光がうっすらと灯っていると、ことに良いでしょう。
玄関先のことです。氷に一枚、薄布をかぶせたくらいの寒さと涼しさの間を行き交う
夜中の空気中、毛布にくるまることはしあわせなことです。
守られるとはどういうことなのか、なにかを凌ぐとはどういうことなのかを思い出せます。
ただそこにいることを許してもらい、ただそこにいることを肯定されることが、
いかに見つかりにくいものなのか。私は真昼間の浴槽と、昼下がりの廊下と、真夜中の玄関先で
それを実感しては毛布で埋めるのです。それはしあわせなことです。
実感の中からしか、見つからないことは分からないからです。これはしあわせかは分かりません。
誰も彼もが眠ったまま時計の針が止まって、太陽が昇らなければずっと夜なのでしょうか。
お月見も星見もしたい、けれども誰も彼もに眠っていて欲しい。太陽に眠ってもらうのが
きっといちばん良いのでしょう。私はずっと深夜の玄関先にいたいです。