サイトへ戻る

静かの海は近所に無く。

いつ頃か前の、ある日の夜更け。窓を開いたとき、私はふと「静かだ」と思いました。

どこかの家の室外機が立てる一定のノイズに、通りすがり車やバイクの音だとか、鳥の小声や、

はるか遠くから薄ぼんやりと滲むように届く風の音も。聞こえる音は無数にあるというのに、

どうしてか私の部屋は窓を開く前よりずっと静かになったのです。

部屋の中に音を立てる物は無く、時計の針の音ももちろんせず、いつもはちかちか眩しい機械類も眠らせて、ただカンテラの中でロウソクがふわふわと灯っているだけでした。

 

 自分の家で自分の部屋なのに、なぜだかいつも妙な息苦しさに追われてしまっているので、

特に寝付きの良くない日なんかは部屋を「静か」にするために窓をあけるようになりました。

 

 無音の部屋で一番音を立てたり、気になってしまうのは自分なので、いつも困ります。

真夜中に点けたテレビか電信のように鳴り続ける耳鳴りだとか、ちらつく外灯の光が目を通して

じりじりと頭の奥を刺してきたりだとか、あとは、ふと部屋の中で意味を知っている単語を

目にしたりなどすると、その「意味」が脳内をぎゅうぎゅう詰めにしてしまって、どうにも

疲れてしまっていけません。辞書で単語の意味を引くように、文字や文の意味がぐるぐると

頭の中を巡り、さらにはその「意味」の解説文に含まれる単語の「意味」がまたぐるぐると

勝手に頭の中の辞書で引かれてしまうので、倍々式に言葉が頭を埋め尽くして、いや、

これがとても困ることです。もちろん、遠くからでも人の声が聞こえるともう

何を言っているのやら聞こえないのに聞いてしまって、まるで霧の奥にぼやけた影の正体を

掴もうと想像するように、恐ろしくてたまりません。明瞭なものは情報量が目の奥に刺さって

しまいますけれど、不明瞭なものは、不明瞭なままに受け取れないものにとっては、それだけで

ずいぶんと恐ろしいものになってしまうのです。

 

 「静か」なことはきっと、夜だと分かることかもしれません。無機質に音を抑えつけて

じっと大人しくさせた部屋に、誰も彼もが寝静まった気配をそうっと呼び込んでから、

ようやくこの部屋に夜が訪れるのでしょう。私がつい時間を忘れて、考え事であるとか

やることであるとかにのめり込むのもいけないのですが。

ロウソクでなく、電気を点けたまま眠ると、いつもかならず悪夢を見てしまうので、

穏やかに夜眠れることは代えがたい幸せなことです。

多くの人が夜に眠って、町中を静かにしてくれることは、いや、救いに他ならないことだと

感じずにはいられません。春眠暁を覚えずと云いますが、できることならもっと、

誰も彼もから暁を遠ざけてほしいと、窓を開けたときに「静か」な音が

ずっと吹き込んでくれれば良いと思ったのです。